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  • 渡邊 航

郷里 | 此君亭前日譚 op.9

更新日:2023年6月11日


 昭和22年、戦後初の直接選挙で大分市長になった上田保は花や盆栽、書や絵画の鑑賞など多趣味で、美への見識も高い人でした。そのため必然のように祥雲斎との交流が始まります。昭和26年には同市駄原の陸上競技場落成記念品として四極皿のセットを祥雲斎に数百箱依頼しています。上田は時間を見つけては此君亭に立ち寄り、2人で美術談議に花を咲かせていましたが、個性が強い者同士、たびたび仲たがいになることもあったようです。



 ある日、此君亭で茶を飲んでいたとき、庭先まで猿が来たことがありました。そのときに高崎山の万寿寺別院辺りでも猿が居着いて困っているという話を思い出し、上田は猿寄せを観光資源ととらえ、自然のままに猿と触れ合える観光地を作れないかと考えました。そのアイデアを実現したのが、現在の「高崎山自然動物園」です。



 また、祥雲斎は上田の依頼で大分市工芸展の審査員を務めたり、特許庁に勤めていた国東市出身の洋画家、江藤哲(のちに日展参与、名古屋芸術大教授)のアドバイスを受けながら、土産品の監修など、地域振興のアドバイザーのような仕事にも携わったりするようになります。地域に自生する柳を使った「柳細工」を商品にするため、主婦を集めて指導もしています。


 昭和33年頃、大分の和菓子職人田口信雄は、小麦粉を茹でた平打麺に甘いきな粉をまぶした大分の郷土料理“やせうま”を、現代の暮らしに合うよう一口サイズにアレンジした和菓子を考案します。信雄の妻タケは茶道の師範をしており、親交のあった祥雲斎に商品パッケージについて相談を持ち掛けます。すると、殺菌と湿度調整に優れた竹皮で包むアイデアを祥雲斎が提案しました。そうして、お菓子を一つずつ竹皮で包み込んで七島藺(シチトウイ/いぐさの一種)で結ぶスタイルが生まれました。「やせうま」は、今でも一つ一つを本物の竹皮で包む丁寧な包装を手作業で続けており、大分県を代表する銘菓となっています。

参照:やせうま本舗 田口菓子舗 https://yaseuma.com/

 上田保は戦前、東京で弁護士をしながら、著書『趣味の法律』が当時ベストセラーになるなど、文筆家としても名を残すなど活躍しており、当時、日本芸術界の重鎮だった彫刻家の朝倉文夫(豊後大野市出身)や日本画家の福田平八郎(大分市出身)らとも交流がありました。郷土を代表する2人の芸術家と、日展で若手作家として活躍目覚ましい祥雲斎とのあいだを取り持ち、交流を促しました。祥雲斎は日展への出品で上京する際には度々、東京都谷中の朝倉の自宅(現在の朝倉彫塑館)を訪れました。昭和35年、息子の徳三氏が武野美術学校(現武蔵野美大)へ入学するのを機に親子2人であいさつに行った時には「同じ水で作った米を食べた人への親しみは格別だ」などと朝倉は話したそうです。福田とは家も近かったこともあり、大分に帰郷した時などに上田を交えて食事を共にしたり、昭和31年に大阪高島屋で祥雲斎が作品展を開催した時には、推薦文を書いてもらっています。

 3人の芸術家の共作となったのが「竹のロザリオ」です。上田が構想していたキリシタン文化センター建築の寄付金を募るために考案し、ロザリオのデザインを朝倉、箱のデザインを福田、竹のビーズを祥雲斎が手掛けました。そして竹のビーズはバチカンのローマ法王ビオ12世に届けることが叶うものの、センター構想は市議会で反対されて頓挫します。行き場を失ったロザリオは湯布院町で旅館を営む中谷健太郎(亀の井別荘)、溝口薫平(玉の湯)、志手康司(夢想園)の3名が昭和46年にヨーロッパ視察へ出掛ける際、現地の人へのお土産として託されることになりました。後に中谷健太郎は「現地で人々の善意に触れるたびに、このロザリオがきらきらと謝意を伝えてくれた」と語っています。

 このように祥雲斎は作品制作以外にも、大分県の振興に精力的に関わっており、公私とも充実した時代だったといえます。人間国宝になったあとも、祥雲斎は生まれ育った大分の地を離れませんでした。その理由に深い意味があったかどうかなど、いまとなっては定かではありません。時として芸術は大地から分離し、「無国籍」な存在にもなり得ますが、祥雲斎は身近な自然や人々に想いを馳せながら郷里で生きていくことに意味を見出していたのかもしれません。



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