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渡邊 航

祥雲斎の框(かまち) | 此君亭前日譚 op.2


 生野秋平(後の祥雲斎)は20代の頃、海沿いを走る国鉄日豊線の車中から「空き部屋あります」の張り紙を目にすると、すぐさまその部屋を借りたそうです。そこは大分市白木の海岸線。今のような国道も無く、部屋のすぐ前には砂浜と海が広がっていました。この場所に移った理由は単純明快で、山に囲まれた田舎育ちの反動で海に住みたいという希望があったのだろうと、息子の徳三氏は言います。その後、その部屋からすぐ近くに水が豊富に湧く土地を見つけると傍らに簡素な工房を建て、その地に本格的に腰を据えることになります。1927年頃のことです。


 それから約100年近くが経とうとする現在、湧き水以外なにもなかった土地には「此君亭」が佇んでいます。庭では樹々が木漏れ陽をつくり、草花が風に揺れ、小川がせせらぎ、屋内では花が生けられ、慎ましい暮らしが営まれています。手入れの行き届いた庭や、こだわりが随所に見られる建築のディティールなど、此君亭の見どころは多岐にわたりますが、中でも特別な存在感を放つものが一つあります。通称 “戀壺会館“ と呼ばれる建物の床の間に据えられた床框です。この框は生前の祥雲斎が角材にして黒漆を施したもので、後年に徳三氏が床の間に据えました。


 

 框とは、単なる横木の木材ではなく、本来は空間を分ける役目を担うものです。語源には「ただす」という意味も含まれます。「場を正す」へと繋がり、ひいては「世界が整う」という解釈へ至るものだと認識しています。玄関の上がり框であれば、内と外を分ける境界線であり、床框であれば、聖と俗を分ける境界線としての役目があります。




 約100年前に何もなかった土地は、今では生野徳三、寿子夫婦の仕事と暮らしの場として受け継がれ、それに伴い時間や暦、ハレとケなど、あらゆる秩序が生まれ、暮らしのリズムを奏でる土地へと変わりました。祥雲斎が塗った黒漆の床框はその象徴として私の眼には映ります。またそれと同時に、約100年前、憧れた海の近くに住み、大好きな美の世界に挑もうとしていた一人の若者の姿とも重なって見えるのです。



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