大分市白木に居を構えた祥雲斎は、自宅近くにある禅寺・龍雲寺に夫婦揃って通い始めたことをきっかけに万寿寺(大分市)の僧、足利紫山(あしかがしざん)と知り合います。紫山老師は江戸末期に生まれ、臨済宗十三派合同の初代管長を務めたほどの高僧で、中央での役目を経て大分に戻っていました。祥雲斎は法話や座禅会に通ううちに老師と親しくなります。此君亭の扁額の揮毫を受けたり、息子(徳三氏)の名前を付けてもらうなど、懇意な付き合いとなりました。徳三氏が子供の頃には、学校を休んで老師の説法を聞きに出かけることもあったといいます。
臼杵市の見星寺の再興のために京都から移って来た安藤実応和尚と知り合ったのもこの頃で、「祥雲斎」の斎号は見星寺の入仏式の際に来県していた妙心寺管長神月徹宗から授かったものです。その後、実応和尚と祥雲斎は終生の友として付き合うことになります。祥雲斎の葬儀も見星寺で執り行い、現在、祥雲斎と実応和尚の墓石は隣り合って建っています。
このように、祥雲斎と徳三氏は禅の世界と距離の近いところで日常を過ごしました。そこで体感する座禅や耳にする法話の数々、境内に漂う禅の気風というものは、芸術を志す者にとって、大きな刺激だったのではないでしょうか。禅寺との繋がりが、祥雲斎と徳三氏の芸術家としての感性に大きな影響を与えたことは言うに及びません。両氏の制作する数々の作品は、身近な自然のちょっとした表情から着想を得ることが多くあります。炎の揺らめく姿や水面を膨らます湧水などを、竹ひごのしなりや曲線を使って表現をしてきました。人間のあるべき姿は自然の中に答えがあるという禅の世界観を、竹という素材と向き合うことで見つめ続けてきたのです。
床の間の墨蹟と花のしつらえはそのエッセンスの最大の発露ではありますが、それだけでなく、庭と建物を構成する素材、色彩、掃き清められた座敷、日常の道具、また何よりも人を迎えるときの心遣いなど、暮らしの表面に現れる全てに禅の精神が溶け込んでいると言って間違いではないと思います。
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