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  • 渡邊 航

工と藝 | 此君亭前日譚 op.12


 芸術的な竹藝というジャンルを切り開き、一定の評価を得た祥雲斎が次の進むべき道に悩んでいたのが昭和39年頃です。この頃、文部省からの勧誘やバックアップもあり、日本工芸会が主催する日本伝統工芸展への参加を考え始めています。そして日展最後の出品となった翌年の昭和41年に、日本伝統工芸展の鑑査員を委嘱され、正式に同会に活動の軸を移すことになりました。日展時代にお世話になった山崎覚太郎(漆芸家)らへの不義理を案じていましたが、理解してもらったようです。

 日本工芸会は無形文化財の保護育成を図るために昭和30年に設立された、当時では新しい団体で、工芸の振興に力を入れていました。同じ年から認定が始まった重要無形文化財保持者(人間国宝)は、純粋に技術的に優れた人物から選定されます。芸術院会員とは異なり地方在住がデメリットになることはない環境も、惹かれた理由かもしれません。結果的に工芸会に所属することで昭和42年の人間国宝の認定へとつながるのです。




 この頃、作風にも変化が見られます。昭和39年の「田里」から、伝統的な籠の制作に力を入れるようになります。以前のような緻密な籠ではなく、大胆な編み方で竹そのものの素材の力を生かした迫力のあるものが中心で、「用の美」中にも斬新な発想を取り入れています。また、「くいな笛」のような、「迫力」とは相反するシンプルな作品制作も増えていきます。 竹に対して振るってきた緻密な「技術」から、「素材」という視点や対話が始まったのです。  「くいな笛」誕生のきっかけは戦前から付き合いのあった佐藤義詮(別府大創設者)や辛島詢士(医師)、岩田正(岩田学園元理事長)ら骨董好きの仲間でつくった「恋壺会」です。昭和25年頃、祥雲斎の工房「此君亭」のそばにある龍雲寺の書院を借りて開催された花の会では、それぞれが持参した自慢の花器に花を生けました。メンバーはそれぞれが芸術に通じており、上手に生けていたようです。祥雲斎は青竹の筒に「窓」という穴を開けて花を挿す素朴ながらも趣のある生け方をしたようです。これが好評でした。 「くいな笛」という名前は、語呂がいいのもありますが、竹に開けた窓が水鳥の「クイナ」を呼ぶときの口に似ていたことが由来です。窓の穴については、シジュウカラが棲んだ木の巣穴からアイデアを得ました。初期の窓は楕円でしたが、途中から能面の小悪尉(こあくじょう)の口からヒントを得て猪目形になりました。竹の節の見せ方などを試行錯誤しながら作るのは楽しかったようです。  所属団体の変化、竹を観る眼の変化。世界が移ろうなかで、竹藝家・祥雲斎のかたちもまた藝術と工芸のはざまを移ろいます。「怒濤」のようなダイナミックな作品とともに、シンプルな造形の中で素材としての竹をどのように生かすかを考えることは、祥雲斎が生涯追い続けるテーマとなっていくのです。





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