戦後すぐ、県の商工技手を辞めて竹工芸家として生きていくことを決めた祥雲斎。軍隊から戻ってくると、大分市白木の借家から少し奥まった場所で住居や工房を建設し始めます。
高台に築かれた「賤薪居/せんしんきょ」(貧しい人の薪小屋)と書かれた万寿寺(大分市)の足利紫山老師の扁額が掛かる8坪ほどのあばら家で、親子3人による新しい生活が始まったのです。
土地の決め手は豊かな湧き水でした。この地で暮らすと決めて、戦前から付近の田んぼを300坪(約千平方米)くらい購入し、建築資材も集めるなど準備を進めていました。購入費は軍隊に納めていた網代の竹の折り畳み弁当箱のライセンスを業者に売って用立てます。仲介したのは旧知の佐藤義詮(別府大学創始者)で、住宅金融公庫からの借り入れの保証人になったのは岩田正(元岩田学園理事長)でした。
賤薪居で制作と生活をしながら、新しい母屋と工房の建築も進めました。工房の設計も大工仕事も祥雲斎自ら行いました。戦後で建築資材が乏しい時代でしたが、別府公園にあった米軍キャンプ地の設営に行った際に昼食後の空になった弁当箱に米軍用のくぎを入れて持って帰るなどして、資材の足しにしていたようです。1948年に工房兼住居を兼ねた6畳一間と食堂がある最初の建物が完成します。その2年後に母屋が完成し、それまでの建物は工房として使うようになりました。母屋と同じ頃に庭と池も造ります。この頃から工房兼住居を「此君亭」と呼ぶようになります。『晋書』王徽之伝の「何ぞ一日も此の君(竹)無かるべけんや 」という故事で、竹を「此君/このきみ」と称賛した言葉が由来です。
当時は戦後の混乱期で食料が満足にない時代。竹工芸家という肩書はなく、職業は農家でした。若い弟子たちと一緒に農作物を育て、山でウサギや山鳥を捕ったり、川でウナギを釣ったりして生活を賄いました。祥雲斎は何事にもこだわりが強く、それは農業でも発揮されます。大原農業研究所(岡山県)から最新の文献を取り寄せるなどし、直接田んぼに籾をまく製法を実践していました。苗を使わない農法は珍しく、わざわざ大分市内の農家が視察に来るぐらいでした。農業は戦後4,5年ほどしていたといいます。
当時、此君亭の周りは棚田ばかりだったこともあり、別府湾を望める2階の座敷を「小海荘/こかいそう」と名付けます。そこに、磁州窯の大きな壷を飾るため、幅9尺の床の間を造り、床框は祥雲斎が自ら黒漆を塗りました。床框は現在、1階の応接間に移設されています。(祥雲斎の框│此君亭前日譚 op,2 参照)小海荘には多くの来客がありました。洋画家の権藤種男や宮崎豊らとは新しい県美協を立ち上げ、古美術好きの仲間らとは二豊学会(後の恋壺会/れんこかい)を立ち上げます。社会に戦争で停滞していた芸術を再興する機運が高まり、祥雲斎も竹芸家としての深みへと進みだすのです。
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