此君亭が完成し、竹工芸家として着実な歩みを進める祥雲斎は、書や骨董の好きな仲間と芸術を語るサークルをつくります。主なメンバーには戦前から付き合いのあった佐藤義詮(別府大創設者)や辛島詢士(医師)、岩田正(岩田学園元理事長)らがいました。その中でも三浦梅園研究で第一線にいた辛島は、昭和25年前後から大分大学学芸部(現教育学部)で国文学を教えていた松本義一、工藤豊彦らと梅園や帆足万里などの書を楽しむ二豊学会というサークルでも活動をするなど、本業の傍らに頻繁に文化的な活動を先導した一人でした。祥雲斎も昭和29年ごろ、大分市中央公民館での文化財展示会やトキハ百貨店での高僧遺墨展などに自身のコレクションを出品しています。
昭和26年に、手仕事の日常品の素晴らしさに美的価値を見いだす民藝運動を提唱した思想家の柳宗悦が来県します。祥雲斎のサークルを訪れることになった柳を迎えるために、メンバーは此君亭の近くの龍雲寺に集まり、柳に見せる李朝の陶器などの美術品の数々をリヤカーで運び入れました。その足で柳は此君亭にも寄ったようで、祥雲斎の妻テイがざらめで作った「やせうま」(大分の郷土菓子)を振る舞いました。「おいしかった」と書いた柳の直筆のお礼の手紙が今も残っています。
この時期に祥雲斎は柳から民芸運動に加わるよう誘いを受けていましたが、断っています。日展など表現の世界で勝負し、むしろ竹工芸を民芸から脱却させるべく奮闘していたこともありますが、家元制度のような独自の決まりで縛られることが嫌だったのではないかと言われています。ただ、その後も柳やバーナード・リーチ、浜田庄司ら民藝運動の関係者は来県のたびに此君亭に立ち寄っており、一緒に日田市の小鹿田焼の窯元などを訪ねたりするなどの交流は続き、昭和36年に柳が亡くなった時には、大分合同新聞に追悼文を寄せています。
二豊学会は5年ほど続いた後の昭和30年代になると、辛島を中心に岩田や佐藤、津崎一石(元県華道協会長)、川並円斎(民芸協会大分支部長)らなど、骨董好きのメンバーだけで集まるようになります。これが今に続く古美術の勉強会、「戀壷会/れんこかい」の母体になります。自慢の逸品を持ち寄って見せ合い、骨董談議に花を咲かせていました。祥雲斎も別府市などの骨董屋に頻繁に出入りするようになり、旧名家から出てきた名品を購入するなどしていたようです。
こうした一連の動きは単なる骨董蒐集熱ではなく、戦後成長期という社会の変革期に新しい美を求める機運の一端のような気もします。一人の作家としても、古いものを見つめ自身の作品にそのエッセンスを投影しようとしていたのではないでしょうか。
昭和30年代から戀壷会は辛島が若い人に向けて講義をする活動になっていきます。その中の一人、タオル屋の営業をしていた福地通祐は、骨董好きが高じて京都に出て、戀壷洞(れんこどう)という骨董屋を開くまでになりました。そのお店は現在も京都の骨董街である新門前通りにお店を構えています。
辛島の死後、昭和50年代ごろから戀壷会の活動は、第一世代の子供世代が中心になった第2世代へと移り、2000年代に入ると地元の有志らでつくる第3世代へと受け継がれます。
竹芸や陶芸などの若い作家、庭師や花人、宿屋の女将などの面々が会場である此君亭を訪れ、大分で育まれた美の文化に触れ、各々が咀嚼し、また次世代へ繋ぐことを担うために。
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