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渡邊 航

竹藝と時代性 | 此君亭前日譚 op.11




 日展で評価を得た「怒濤」以降、芸術性の追求を続ける祥雲斎。今までの「置き型」の作品とは別の、「吊り下げ型」の作品(モビール)に挑戦し、さらなる新境地を切り開いていきます。まず昭和32年に「花籠 炎」、同じく32年に「花籠 陽炎」と、立て続けにモビールを出品します。「炎」は特選・北斗賞となり、2年連続の受賞となりました。「怒濤」までの“波”をモチーフにした三部作の次は、“火”をモチーフに選んだのです。荒天の中、海に出向いて波三部作の着想を得たように、今度は精錬所に出向き、るつぼの燃え上がる炎の様子を観察しました。

 モビールについては、籠を乾かすために電灯の近くに吊るすとユラユラと揺れる影が美しく、妻・テイと一緒に見入ったことがあったという話を昭和21年頃にしています。風による炎や水面の揺らめきを表現する構想はそれ以来、ずっと秘めていたのではないでしょうか。祥雲斎本人は「竹の軽快さを生かせるよう努力してみた。交差する竹や鑑賞する位置の変化で醸し出される幻影を燃焼する炎として表現した」と語っています。




 造形の美を追求する祥雲斎は昭和34年からは、商業建築の屋内ロビーなどに置かれることを想定した大きくダイナミックな作品を手掛けるようにもなり、「虎圏」(同年)は「ホールのための竹華器」と説明書きに記しました。さらに昭和36年の「梟将」は弟子数人で竹を編み込むなどして迫力のある作品に仕上げています。

 さらに昭和35年には丸の内ホテル(東京)のレストランの室内装飾の依頼を受けています。東京オリンピックに向けて、外国客をもてなす空間づくりを担当していた同ホテルの米国女性デザイナー、パトリシア・ケラーが、東京国立近代美術館で開かれた展覧会で「怒濤」を見たことが依頼のきっかけでした。

 ダイナミックな作品に挑戦したのは、小さい作品はやり尽くしたということと、当時、ひしぎ(丸い竹を半分に割ってたたいて平たくした素材)という大きな竹材を使い始めたことや、装飾的な作品への評価が高まってきていたことなどが関係しているのだと想像できます。


 時代は高度成長期で、欧米の文化の多くが流入し、日本人の生活パターンも大きな変貌を遂げる時期です。竹藝だけでなく、全ての芸術分野、もっと言えば社会全体が、新しい時代のニーズに呼応をし、伝統よりも新しいものにスポットライトが浴びました。床の間芸術から離れた竹藝の在り方として、祥雲斎は一つの答えを出したのかもしれません。

 特に竹藝は国内よりも海外から評価されます。芸術新潮(昭和35年12月号)では、チャイルズという批評家が、北大路魯山人、荒川豊蔵と共に祥雲斎を紹介し、次のように書いています。「『荒れ狂う波』という題が付いていたが、これは彫刻として見た場合、ペブスナーやガボの作ったものよりもはるかに優れたものであった。これほどすばらしい彫刻を長い間見たことがなかった。(中略)西欧人は本当のものだけに敬意を払う。表現が本当に独自で、完全で、誠実で人間的であるときにのみ彼らは尊敬を払うであろう」。

 この時期の祥雲斎の竹藝は造形としても最高潮を迎えたと言って良いかもしれません。昭和33年には地方在住の作家としては異例の日展審査員にも選ばれています。


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