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  • 渡邊 航

竹と海の造形 | 此君亭前日譚 op.10


「竹華器 怒濤」と祥雲斎。1960年頃の撮影。


 祥雲斎にとって日展(日本美術展覧会)は年に一度の大舞台でした。制作に入ると一ヶ月は工房にこもり寝食を忘れるほどだったそうです。その姿は緊張感が張り詰めており、家族でもうかつに近づくことは憚られるほどでした。昭和28年、49歳の時の日展では、技の粋を極めた「仿古盛籠」を出展します。審査委員を務めていた当時の竹工芸界の重鎮、飯塚琅玕斎(1890~1958年)にできうる限りの技量を示そうと試みましたが、結果は落選でした。この落選が大きなショックだったことは間違いなく、悔しさからか作品は最後まで自分の手元に置かれていました。

 昭和42年、63歳の祥雲斎はこの落選を振り返り、「落選がなかったら今日の私はなかったかもしれない」と述べているように、この年を境に作風が、籠など実用品の「用の美」の追求から、より芸術性の高い造形的なものへと変わっていきます。昭和29年に「波(盛夏)風炉先」、昭和30年は「竹盛籠 うねり」を発表。昭和31年には「竹華器 怒濤」が日展で特選・北斗賞を受賞します。

 昭和28年の落選でどこか吹っ切れて「技術だけで評価されないのならば好きなことをしよう」と思い至るようになりました。「うねり」は籠の類で、まだ用の美を残していましたが、「怒濤」は当時の出品申込書にも「荒天の海原をモチーフとし、強さ、動き、美しさに重点を置いたホールのための作品」と書いており、造形を意識しています。芸術品としての竹工芸という新しい歴史を切り開いた傑作で、祥雲斎を代表する作品になりました。




 祥雲斎は小さい頃に画家を目指し、竹工芸家になってからも戀壺会などの骨董・芸術好きの友人と交流を深めていたこともあり、竹工芸を芸術性のある作品に昇華させたいという想いをずっと持っていたのだと思います。造形にかじを切れたのは、工芸の芸術性を高めようとする現代工芸というジャンルを模索する作家が増えてきた時代背景も後押しになりました。また、デザイナー・クラフトマン協会にも所属しており、家には工芸ニュースやイタリアの建築雑誌「ドムス」が毎月送られていました。インダストリアルデザイナーのレイモンド・ローウイの「唇から機関車まで」も愛読しており、モダンな建築が好きで海外の美術シーンの動きもよく知っていました。

 ただ、やはり当時の工芸はまだ「器」から抜け切れない伝統的な考え方の作家が主流でした。だからこそ、決まりに縛られたくないという反骨心が芽生えたのですが、この表現がどこまで受け入れられるのかという不安の中を彷徨う日々だったと思われます。日展で評価を受けて報われたときは、さぞやホッとしたことでしょうし、芸術家としてひとつの壁を貫いた瞬間でもあったのです。

 

 昭和29年10月15日付の大分合同新聞に祥雲斎のコメントが載っています。「竹の特質の弾力性を生かすことと、大海原の波の律動を表すことに苦心したが、気持ちのよい作品ができた。(中略)今まで誰も手掛けたことのない新鮮な方法で私の永年念願していたものだ」。  

 此君亭からは別府湾の海が望めます。台風のときは佐賀関まで出かけ、よく波の動きを観察していました。海はおのずと表現の対象になっていったのです。この頃の作品名が海に関するものが多いのも、当時の祥雲斎の心の内を表すものと見てよいでしょう。

 別府の山村で産まれ育ち、海にあこがれを持っていた祥雲斎。竹という素材と海というモチーフが苦難の末に合致した瞬間に立ち現れた造形は、やがて人間国宝という最高の栄誉を得るほどに生命力が溢れる美しさを纏っていたのです。




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