中谷巳次郎は、郷里の北陸で旅館経営に失敗し別府に流れついて、一軒の骨董屋を始めます。モノを観る眼は確かで、茶の心得もあって風流な人物だったそうです。後に別府の観光開発に尽力した油屋熊八が、湯布院に新たに作る宿(後の亀の井別荘)の管理人に指名したことからも、きっと面白みがあって魅力的な人柄だったのだろうと想像します。
若かりし祥雲斎は自分の作品を持参して巳次郎の店をよく訪れ、美術談義を繰り広げたそうです。ある日、当時工芸の分野の大家であった藤井達吉が亀の井別荘に滞在していることを巳次郎から聞いた祥雲斎は自作の籠を持参しますが、「竹が死んでいる」と酷評されてしまいます。当時の祥雲斎はすでに中央でも評価を受ける作家となっていましたが、藤井の言葉は相当にショックだったようで、一時は竹芸から離れようと思ったほどだったといいます。
その後も巳次郎は祥雲斎を支えます。湯布院の仏山寺に生える良質な竹を材料に提供したり、著名な学者や芸術家らを紹介し、一流の人間の仕事に対する心構えなどに触れる機会を設けました。
祥雲斎を代表する作品の一つに「通い筒」という花入があります。庭で花を摘んで室内に入るまで、花材を運ぶために使う竹筒の道具から着想を得たものですが、試作段階の時に巳次郎に何度見せても納得してもらうことができず、完成までは相当な苦労を伴ったという一品です。昭和35年に巳次郎が亡くなった際、葬式に参列した全員にその通い筒が送られました。
また、亀の井別荘の現会長である中谷健太郎さんが、父・巳次郎の後を継いだのは昭和37年ですが、田んぼに囲まれた山村だった湯布院の知名度がまだ低かった頃、火の車であった経営を助けてくれたのが、祥雲斎だったといいます。当時、日展の重鎮になっていた祥雲斎は、黒田辰秋、荒川豊三、山口瞳などの著名な作家たちを黙って連れてきてくれたそうです。これらの話は、祥雲斎の巳次郎に対する想いを推し量るには十分なエピソードです。
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