昭和17年に長男の徳三(此君亭現当主/竹芸家)が誕生します。翌年の18年には「心華賦盛籃」(しんかふもりかご)が文展で特選を受賞します。おめでたいことが重なり、作家としても安定した時期に入ります。さらにこの頃、後に一生の付き合いとなっていくメンバーとも知り合います。大分万寿寺の足利紫山老師の下に参禅した席では、別府大学の創始者である佐藤義詮がいました。その後も医師である辛島詢士、その弟で陶芸家の辛島詢多、大分の岩田学園元理事の岩田正らとも交流を持ちます。彼らは東京で学生生活を送り、先進的な思想や哲学を持つ、芸術文化への関心も高い人達でした。戦後には「二豊学会」や古美術研究を目的とした「戀壺会」(れんこかい)などを興し、積極的な文化活動を行っていくことになります。
志を同じくする友人たちとの出会いは、祥雲斎にとっても大きな影響があったことでしょう。夜な夜な芸術談義を繰り返すうちに、自らが進むべき道も洗練され、30代という体力的にも充実した時期とも重なり、竹芸家としてさらに大きく羽ばたこうとしていました。
しかし、昭和20年4月に祥雲斎は軍隊に召集されます。竹芸家としていままさに突き進もうとするときに、その想いをくじかれたときの心の内はいったいいかほどだったのでしょうか。出征のときに万寿寺の山崎大耕管長から小さな筒に入った極上の玉露を手渡されますが、所持品検査の直前で咄嗟に捨ててしまいます。ほのかな茶の残り香が平凡な幸せの尊さと重なり、見えない未来への苦しさが心を覆います。
幸いにも戦地へ赴くことはありませんでしたが、配属先の長崎では事務職や商工技手として働き、防空壕の設計などもこなしました。わずかに空いた時間で作った桜の皮のタバコケースは上官お気に入りだったそうですが、職人として生きていくはずだった祥雲斎のやる瀬のない抗いのようにも映るのです。
やがて戦争が終わります。佐世保から大分へ走る汽車の窓から明かりのついた家々を眺めているとき、生き残ったことを実感したそうです。そして「自分の好きなことをして生きていく」という、新たな決意を持ったのでした。帰郷した祥雲斎は勤めていた県の商工技手(公務員)を辞めます。時を経て人間国宝になる芸術家は、もしかしたらこの時に最初の一歩を踏んだのかもしれません。
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