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  • 渡邊 航

人間・祥雲斎 | 此君亭前日譚 op.5



 日本初の官営の美術展覧会で、現在の日展へと連なる「文部省美術展覧会」通称“文展”の第一回目が明治40年に開催されました。近代国家へと家事を切った日本が西洋をお手本にしたのは科学技術だけでなく美術においても同様でした。

 芸術を志す者にとって、文展で認められることこそが当時は全てであり、欠かせないものでした。逆に言えばこれ以外の手段は無かったと言っても良い、そんな時代でした。


祥雲斎 生家

 祥雲斎も類に漏れず、昭和12年から出品を始めます。「竹の技術では日本中の誰にも負けない。他の人とは違った純粋芸術を狙う」という逸話も残っているように、若かりし祥雲斎は意気揚々と中央の美術に挑み始めるのです。はじめの数年間は落選が続きますが、頑なに挑戦を続けた結果、昭和15年に「八稜櫛目編盛籠」(はちりょうくしめあみもりかご)が念願の初入選を果たすことになります。

 以下の文面は祥雲斎が友人に送った手紙です。入選の発表直前の落ち着かない様子や、入選が決まったあとの喜びなど、当時の祥雲斎の心の内を覗き見ることが出来ます。


入選か落選か審査委員のみ知る事です。新聞で発表は二十八日夕刻の由知りました。

ご都合付くなら弐十八日夕刻会場に見に行って下さい。

入選したら直ちに電報。

之れは型の如く運命の定まるまで気が落ち付きません。

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ご尊兄の御打電により入選を知り、一生に二度と味わ得ぬなんだか形容しがたい気持に相成り申候

其の後は毎日知人各位の御祝電並に御来訪に接し毎飲祝杯を重ね居候

昨夕は奉公をも忘れ指導所連中都合八名にて五升を片付け 本日二人欠席その他は頭痛の気味有り実に痛快に御座候


 

 今では、祥雲斎と実際に接したことのある人はごく限られ、“人間祥雲斎”の体温はなかなか伝わってきません。常に「人間国宝」という言葉で括られることで、個人の人間性までが語られる機会が少ないのは残念なことです。この手紙は祥雲斎の、良い意味での人間臭さの一端をうかがい知ることができる貴重な資料です。

 初入選を機に、竹芸を極めようとする芸術家の心はますます燃え上がり、充実した時期を迎えることになりますが、それは長くは続きませんでした。戦争の足音は確実に近づいていたのです。

 









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